記憶の底から

「困ります!」Mさんの声がさほど広くない事務所を走り抜けた。窓口から東京電力営業所の職員が囁くように話続ける。「上の方からは切るように言われているんですよ。いつまでもこのままじゃ私共も困るんです。」「そんなことには返事できません。美術館の主も居ないのに。」Mさんの声は苛立っている。この日5月12日、丸木美術館には丸木夫妻と事務局長は不在だった。新しく構想している原子力発電所をテーマにした絵本の取材のため旅行中であった。Mさんは週の半分をこの美術館に勤めているが今日は休みだった。たまたま用事で立ち寄ったのだが。東電はまるでその時を見計らったようにやってきた。Mさんと東電職員の話し合いは平行線である。その間、営業所長はずっと車の中で待っている。「いつもそうなんだから。」Mさんがつぶやく。しばらく話し合いが続いたが、やがて別の職員二人が所長のGOサインで動き始めた。そして美術館の裏手にある配電盤を開け、スイッチを切り、封印をする。あっという間に彼らは去って行ってしまった。館内はあいにくの曇り空で真っ暗である。ちょうど近くの高校からの団体見学の予定が入っている。事務所の中は急に忙しくなった。Mさんは旅行中の丸木夫妻の宿泊先に電話を入れる。取材中で旅館にはいない。帰り次第電話を入れてもらうことにする。あいにくとファックスも使えなくなってしまったので連絡すべきところに次々と電話をしている。朝日新聞と毎日新聞の記者がやってくる。早い。東電から連絡があったと言う。自家発電用のモーターを運び出し、暗い部屋に電球を吊るす。館内にはすでに高校生たちが入っていた。ただでさえ安い入館料を無料にして入ってもらうことにして、声明文を張り出す。薄暗い館内に丸木夫妻の絵が浮かび上がる。おかげで絵は一層の迫力である。周辺の静けさを破って自家発電のモーター音が響き渡っていた。