終活と言うのはこれかもしれない

終活という言葉に釣られて身近な所持品を結構処分してしまった。あまり着る機会のない洋服や使う事のない持ち物を捨ててしまったのだが案の定実際には困ることもない。古い写真なども捨ててしまった。今は記録媒体があるのでこれからはパソコンなどの中身も対象にしなくてはならないのかも知れない。先日古いパソコンの中に置いてある書類を移そうと思ったがどうしても出来なくて業者に連絡したが既にサービスの保証期間も過ぎていてどうしようもなかった。見られて困るようなものがある訳ではないが取り出すことが出来ないというのも困ってしまう。これはまだ解決していない。

自分が十代の時に仲間たちと同人誌を出していたことがあった。その中に書かれていた詩をメモしておいたのだが誰の作品なのかがよくわからなかった。しばらくしてそれは富岡多恵子氏の作品ではないかとわかったのだが詩集や全集などを見てもその作品は乗っていなかった。氏は既に小説の世界に移ってしまい新しい詩の中には当然ある筈もない。作品の一覧を見つけることが出来たので探してみたら一つだけこれではないかと思えるようなものがあった。それは1967年ころに出された何かのニュースの中に書かれた詩だったが見られないので確証はない。それを未だに探しているという事なのだ。同じようなものは他にもいくつかあってそれらを偶然にも見つけ出していく事が出来ればと思っている。つい最近も昔の記憶の中にあった作品を知り合いが紹介してくれて見つけることが出来た。記憶の中のものとはやはり少し違っていて自分の思い違いもあることが分かった。しかし長年の探し物が見つかったことによる喜びと安心感のようなものがあった。終活という作業の中にはこうしたことも含まれているのかも知れないと思った。これで思い残すことはないと言う訳ではなくまだほかにも気になったまま記憶の中にモヤモヤしたものはあるのだが。