2016年

12月

30日

寒さの中で

 いよいよ今年も終わりに近づいてきた。懸案の棚卸しも終わり、今日で年内営業は終わりとなる。不思議なもので昨年とほぼ同数の推移となっている。ということは相変わらずというか少しマイナスになっている可能性があるということかもしれない。移転の話も全然動かない。まるで詐欺に逢ったような気分であるが仕方ない。当面このままでおとなしくしているつもりだ。ひっそりと古本屋の店主をやっていよう。

 今年の夏場以降は体調面もあまり良くなくて、年末になってまだ同じような感じなので年明けには病院に行くつもりだ。全く良いことがない。知り合いの詩集も結局年末ぎりぎりまでかかってしまったが、何とか出版になりました。これは良いことか。すぐに次の本づくりに入ることになっているので、またしばらくは原稿との対話が続くことになりそうである。しかしこれが良い勉強になる。正月休みのために本を何冊か購入したので、これから読書が続く。

 温暖な冬が続いているが、朝晩はやはり寒さを感じる。私の部屋にはエアコンが無いので夏は暑く冬は寒い。でも慣れればこれで不自由はない。この季節は裏の山から吹いてくる風で落葉が溜ってしまう。これを毎日のように掃き集めて裏庭に貯めている。昨年の落葉は良い堆肥となり、すでに花壇に入れたので、今年の分をまた堆肥にするつもりだ。今の所に引っ越して想定外だったのはこの風の強さである。家が壊れるのではないかという位に強い。

 そんな訳で、寒さの中で日々落葉掃きをしている。掃いても掃いてもきりがない。毎日がまるで修行のような作業であり、木が裸になるまで続くのだ。掃いた後に落葉、その時の心理状況は今の自分には結構良い刺激になる。これが毎日であり、毎年であり、一生である。そう考えると毎日同じことを繰り返していることも何ということはない。こうしてまだ古本屋はしばらく続いていくのかもしれない。

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2016年

12月

24日

本当に良いのか

 久しぶりに東京に出かけた。最近はお洒落な古本屋が出来ているのでもっと色々な店を見て回りたいと思っているのだが、あまり遠くへ行くと帰ってくるのが大変なのでなるべく近い所までにした。値段が高い店、本がきれいな店、様々な雑貨類を置いている店、カフェやバーを兼ねている店、古い貴重本を置いている店、色々な店が出来ていると感心してしまう。イベントで楽しく本を売っている所もあるし、ネットでしっかり商売している所もある。そんなお洒落な店を紹介している本も出ている。何だか古本屋ブームが来ているような感じである。でもこれが心配なのだ。本当に本が好きで読んでいるのか、こういう棚づくりで良いのか、本当に楽しんでいるのか、そんな気になってしまう時もある。余計な心配をしているのかも知れないが、最近これでいいのかと思うことがある。全部がそうだとは言えないが、限界点を見たような部分もあり、ここからしばらくするとこうなるのかも知れないと多少心配している。

 今度はこんな本が出た。「本が好きだから本で暮らすことを選んだ女性たち」というのが帯文である。全国のちょっと変わった、本に関わることを仕事にしている女の人を紹介した本である。裏表紙には「本を読んでいる人がいて、何となく安心できる場所がつくれたら良いなって」とある。人に優しい社会を理想にするのは悪い話ではないし、優しさに触れたいというのは本当にそう思う。確かに社会は弱肉強食時代に突入し、障害者や老人など社会的弱者には冷たい気がするが、何だか大切な部分でスル―しているような気もする。時間が経過すればまた変わってくるのかもしれない。時代の振子はもう転換地点まで振れたのだろうか。「本の時間を届けます」(洋泉社)

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2016年

12月

22日

年末恒例の

 今年も年末が近付いて来て、さて正月の休みをいつにしようかと思っている。店の定休日に合わせて新年は4日から営業したいと考えているが、 年末はどうしようか。今年の大晦日は31日になるので30日くらいだろうか。いずれにしても暇なので大した影響はない。ただ年末には棚卸しをしないといけないのでその時間は取らなくてはいけない。暇なのなら今からやっても大丈夫か。年末になると何となく気忙しいという雰囲気になって来る。本はみんな12月に新年号の配送まで終わってしまうので、12月の特集はもうかなり前からできていることになるのだろうか。いくつかの誌面で恒例の今年売れた本、今年のお薦めの本などが掲載されていた。当然知らない本がいっぱいあって、こんなに出ていたのかと思う。掲載される媒体や選者によってずいぶん違うのは仕方ないとしても、自分の読んだ本はほとんど載っていない。もう限界があるのですべて情報をつかむのは無理、でも本はどんどん出されているものだと驚いてしまう。本が売れないという声を聞くと、これらはどこへ行ってしまうのだろうと考えてしまう。裁断されてしまうのならもったいない。売れない本を買ってきては棚に入れているが、とにかくまず読まなくてはならない。

 すでに長い年月を経て未だにきちんとした決着を見ないまま狭山事件は続いている。何冊も出されている本を棚に並べているが、又一冊そこに加えることになった。冤罪事件として石川一雄さんは裁判を闘い、すでに半世紀を過ぎようとしている。裁判支援の集会は毎年のように開かれて石川さん本人も出席している。周辺の関係者も何人か亡くなっており、最終推理とタイトルに掲げても当然真犯人はこの人と書く訳にもいかない。が、事件の内容も経過も含めて繰り返して丁寧に分析されている内容は興味深いものがある。ここまで書かれていると当時の様子が詳しく知りたくなるが、食い違う証言も今ではすでにほとんどのことが思い出せなくなっていると思われる。年齢も重ね、社会的な制裁も受けて、そろそろ決着を見せても良いのだはないだろうか。「最終推理狭山事件・浮かびあがる真犯人」甲斐仁志(明石書店)

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2016年

12月

18日

図書館見学

 また新刊本を読んでいる。一人出版社の本は何冊も読んだが、この出版社の本はすでに何冊か読んでいる。古本でもあまり安くなっていないので新刊で購入している。基本は名著の復刻という路線なので知らなかった人の作品を読むようにしているが、どうしても価格が高いので全部読む訳にはいかない。内容が図書館の話なので気になっていて、見かけたので買ってしまった。私はあまり図書館で本を借りて読むことはないのだが、小さい頃には図書館が居場所として好きだったのを覚えている。知り合いが図書館で働いていたり、自分の家で家庭文庫などをしていたりしていたので内容について興味を持っていた。

 移動図書館から始まって理想の図書館を作り上げるまでの記録でもある。背景として多少政治的な動きも現れるが社会教育としての実践記録である。好きなことに情熱的に関わっていく中では、あまり苦労したという部分が出てこないのが気になる所ではある。最後には市の助役にまでなってしまうのでかなり力量のある人なんだろうなと思う。読書は文化運動なのだと改めて感じる。夏葉社としてもそういう運動をしている事になるのだろう。一か所編集ミスを見つけた。

 地元にも図書館が当然あり、何回か行ったがどうしても馴染めなかった。まず靴を脱がなくてはならないのが面倒だし、そこに椅子も手摺りも無くてどうも年寄りには勝手が悪い。本も借りたいものが無くて何ともお粗末という気がした。店のある東松山市では三階建ての立派な図書館があるが、かなり老朽化しており、やはり予算が少ないのだろうと想像できる。先日はお客さんに勧められて小川町の図書館を見学してきた。駅に近い所に突然出てきて驚いたがなかなか内容のある施設だった。これが近くにあればもっと利用するかも知れないと思う。いま図書館は民間委託が多くなってきている。指定管理者がどこになるのかでかなり内容が変わってくる。県立の図書館も閉館してしまうし、地方自治体には図書館や公民館はもう必要ないということなのだろうか。その代わりに巨額をかけて大きな文化施設を造ることになって、将来的には維持費も含めて住民負担が増えるだけになるだけだと思うが。「移動図書館ひまわり号」前川恒雄(夏葉社)

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2016年

12月

15日

整理して処分する

 昔作成した古いカセットテープで懐かしい音楽を聞いている事が多い。定年後にこれらの音楽を聞きながら暮らすということを想定して一生懸命録音しては保存しておいたものだ。しかし、最近は音楽を聞くことが無くなってしまった。店でBGMとして音楽を流すのも良いかもしれないと思っていた。事実当初はそんなこともしていたが、すぐに飽きてしまったのと東北で大きな地震が起こった時にラジオに切り替えてしまった。ニュースはすぐ伝えてくれるからだ。それもつまらない番組が多いので今はほとんど聞かなくなってしまった。

 最近これらの昔の音楽テープを聞いているのは整理するためである。聞いてほとんどは捨ててしまう。あんなに一生懸命録音したのにほとんど聞くことがないからだ。すでに映画などのビデオテープは捨ててしまったし、CDは店で売ってしまった。収集したスクラップなども捨てて、持っていた本は店で売っている。だんだんと自分の持ち物は少なくなっている。不思議なもので捨てて惜しいとか思わなくなっている。もう少しだ。

 整理すると言うことは自分の脳が記憶できる範囲で体験してみると言うことで何も残らなければそれまでのことと諦めている。どうしても必要なことはメモにしているが、それも必ず保存できている訳ではないのでそのうち自分の記憶メモリーから無くなってしまったらそこまでだ。若い頃にローンを組んで購入した平凡社の百科事典は家族が捨てたくないと言うのであちこち引っ越した時も常に持ち歩いてきた。重い段ボールは最後にはそこから出されることもなく押入れの隅で眠っていた。それもやっと捨てることになった。それで良い。

 の棚に漫画は並んでいない。並べる棚が無いのとどう処分しようかと考えていたからである。最近それも少しずつ整理し始めている。貴重な資料価値のあるものもあるかもしれないが、これも始めたら結構進んでいる。反面で新刊本も読みたいものは買って読んでいる。いまではそれも読み終えたら売ってしまう。貸本漫画は最後の段階で経験している。まだ近くに店が残っており、貸し出していた。何回かは借りて読んだことがあるが、そのうちに店が潰れてしまった。あの本を売ってもらっていれば今では高く売れたのだろうか。買っていた人もいたようだ。この本にはその歴史的な背景として戦後の社会状況も多く書かれている。懐かしく思うと同時に今とそんなに変わっていないとも思う。「貸本マンガと戦後の風景」高野慎三(論創社)

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2016年

12月

09日

衝動買いが止まらない

 また家族に頼まれて本を探しに書店に行く。検索をかけると店内に在庫があったので購入する。ネットで注文すると余計な手間がかかるので助かるが、結局新刊で買うんことになってしまった。ついでに自分の探していた本も調べてみたら何と在庫が二冊と出てくる。棚を見ても無いのでやはり売れているのかと思ったが、念のため店員に確認したら奥から出してきた。合わせて全部で三冊を購入したら一万円を超えてしまった。これでは生活に支障が出てしまうので少し抑えなくてはならないと反省する。

 探していたのは梯久美子氏の「狂うひと」、副題が「死の棘の妻・島尾ミホ」という600ページを超える大作である。ここしばらく書店を歩いて探していたもので、数日前には在庫なしだったで売れているのだろうかと思っていた。どこかからか回してもらったのだろうか。見たらすでに二刷になっていた。これでしばらくは読み終えるのに時間がかかりそうなので新しく本を買うのは控えたい。それにしても家族で本を買いまくっていたのでは本は溜まるばかりだ。お客さんが来ないので本日もすでに一冊読み終えてしまった。危ない。読み終えたのは今年亡くなった吉野朔美氏の本。「吉野朔美は本が大好き」(本の雑誌社)

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2016年

12月

07日

老後の参考書

 近くに大きな書店が出来たせいでよく行くようになった。しかし、私の欲しい本はほとんど在庫なしと出てくるので仕方なく衝動的に何か買ってしまう。そんな訳で最近は新刊本をけっこう読んでいる。古本屋はあまり新刊本は買って読まないようだ。待っていればそのうち古本出手に入ると考えてしまうし、定価で買うことに抵抗感が出てしまうのかもしれない。今は定年退職後の趣味の店という感じで見られているのではないかと思う。それを完全に否定できるほど商売が出来ている訳ではないので仕方ないが、世間で言われるほど今は本が売れないと言うのは当てはまらない。何しろほとんど売れないのだから。暇を良いことに最近は本を読むことにしている。何しろ店の棚にある本で読んでいない本はいっぱいある。そのうち読めるだろうと言うことはなく、実際には読まずにため込んでいただけだったのだ。

 さて、高村薫「土の記」を読んだ。新刊である。この本は昨年読んだ本の中ではかなり面いと思う本である。一気に読んでしまった。それでも三日間位はかかった。何しろ単行本で上下巻600ページほどあるだろうか。実は面白かったので少しずつ読んでいた。大体が食わず嫌いの傾向があり、それほど色々な作品を読んでいる事はない。面白いと思った作家の作品をある程度集中的に読みかじっている。当然この人の作品は初めて読んだ訳で、面白かったので他の作品も捲って見たがそれほど興味は持てなかった。何が良かったのだろうか。この文体、語り口が一つある。このような興味を持ったのは10代の頃に教師から教えられた大江健三郎の作品以来だろうか。実に取っ付き難いが先に読み進みたくなるのだ。特徴的なのは会話文が括弧付で書かれることなく主人公の独白のようにずっと綴られている事である。著者の他の作品はそうではなかったので敢えてそうしたのだろう。

 大きなテーマとして取り上げられているのは過疎地の農業のこと、加えて高齢者問題だろうか。会社勤めをしながら農家に婿入りする、妻が出入りの営業マンと不倫する、自分はいつの間にか認知症になってくる、近所の女子高生が殺される、今は妻の妹と暮らす、そこに東日本の震災や原発事故、地域に怒る社会問題など、それにしてもものすごい知識と情報量を盛り込んだものだと感心してしまう。それらを独特の語り口でどんどん出してくるのだから圧倒されてしまう。

 さてさて、定年退職後の田舎暮らしは、以前はある意味では理想的な生活だった筈だ。だが今の農業に期待は持てないし、過疎地での高齢者問題はかなり深刻だ。これは自分にとっても同様で少し心配になっている。それらを考慮しても農作業を淡々とこなしていく日常生活と、地域においてどう暮らしていくのかを考えると、こうして生きていくことがこれから現実的になってくるのだろうと思う。しかし、この主人公のように半分だけ現実で半分自分の世界で生きていけるのならそれも良いじゃないかという気持ちになってくるのだ。筆者の考えとは別に、これから残りの人生をどう生きるかは自分にとってもかなり悩ましいことになっているのだ。古本屋の店主として年金を食い潰していつまでこうしていられるのかは全くわからないし、いつ痴呆になって病気を抱え込むかもわからない。若い時からあまり深く考えないで生きてきてしまったので未だにこんな状況なのだ。そんなことを考えながらこの本を読んだ。ラストが哀しいと他の人は評されていたが、私はこんなもので良いと思った。「土の記」高村薫(新潮社)

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