2017年

7月

28日

本を読む

 二冊の吉村昭氏の本を読む。読みかけの本がなかなか読み進まないので合間に別の本を読んでいる。それも何冊も読みながらまた読みかけの本に戻るということをしている。全く内容の違う本を読んでも支障はないので同時進行で読んでいる。ここの所文学作品は読めていない。エッセイや随筆などが多い。吉村昭という人の作品は読んでいないのに偶然に二冊も入手したので読んでみた。「私の文学漂流」では読んだ本の紹介なのかと思ったら自伝であった。結核で長い間苦しみ手術までしながら作品を書き続けた内容が分かりやすく書かれている。勤めながら真面目に文学作品を書き続けた人柄が伝わってくる。今更だが最近新聞の書評欄を読むようになっていたから、書評の意味や書き方がこういうことだったのかと改めて理解できた。旅に関するもう一冊の本はさらに読みやすい。いくつか重複する内容もあった。「私の文学漂流」吉村昭(新潮社)、「旅行鞄のなか」吉村昭(毎日新聞社)

 漫画家の竹宮恵子氏がデビューしたのは雑誌「COM」の投稿欄からである。愛読していたので当時の作品もよく覚えている。あれから50年が過ぎている。実は竹宮氏の作品はあまり興味はなかった。その後の活躍もほとんど関心が無かった。当時はこの世代の漫画家の取り上げ方が多くなり大きなブームを起こしていた。実際漫画の書き手はこの時代からどんどん入れ替わっているのだ。今まで本を出していなかった筈なので今何を書くのだろうという興味はあったが、内容はデビューからの半生記でこちらも今更という感があった。「少年の名はジルベール」竹宮恵子(小学館)

 まだまだ続くのだろうかと言う感じでまた本屋の案内本が出ていたので性懲りもなく買ってしまう。この本屋&古本屋ブームはどこまで行くのだろうか。そんなに面白いのだろうか。「東京わざわざ行きたい街の本屋さん」和気正幸(GB

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2017年

7月

22日

続・社会的事業と新公共スタイル

  最近本の買い取り依頼で出かけると年齢的に共通している傾向がある。団塊の世代が会社を辞めて生活の整理を始めているような場合と連れ合いが亡くなって蔵書を片付けたいという場合などである。不思議とその蔵書も似たようなものが多い。時代によって多く売れた本、よく読まれた本が一斉に放出されてくることになるのだ。中には貴重な本をいっぱい持っている人もいるのだろうが、所謂ベストセラー的なものはそれだけ読まれた分が古本としては有り余ってくることになる。買った時には高い値段で買って、それなりの思い入れもある本が年取ってくると邪魔なものになり、整理されることになるのは残念なことだ。しかも今や本は売れなくて安くなっているのだから捨てたほうがいいと考えてしまうのも仕方ないことなのかもしれない。運動的に何とか本の活用法を模索していきたいと思う。

 定年退職した後に何をしたらいいのかということが問題になってくる。まだ体力も意欲もあるのに実際には働く場が見つからないという人もいるし、年金生活は結構厳しいので生活のために節約しているということもある。歳をとると身体もあちこち悪い所が出てくるが、病院に行くと医療費が嵩むので控えているという場合もあるのだ。肝心の年金も少しずつ減っていくのだから老後の不安は増大するばかりだ。健康のためには全く仕事をしないというよりも短時間でも働いていた方が良いし、年金と合わせて多少の賃金を貰えれば生活不安も解消に向かうのではないかと思うが、現実にはそうはなっていかない。

 一番気になるのは仕事中心の生活をおくってきた人が地域での居場所が見つからないでいるケースである。趣味を見つけてサークル活動を始めたり、健康のために運動を始めたりと色々模索している人もいるが、やはり働くことが当然の生活だった訳だから、やることも無く悩んでいる人もいるような気がする。毎日のスケジュールを立てて色々な所に出かけては忙しいことを生きがいにしている人も見かける。国策で年金受給を遅らせて働き方改革を進めるなら、若者たちの生活を安定させ、全世代が安心して暮らせるような政策を充実させるべきではないかと思ってしまう。

 いつからだろうかと思えば、30代後半から誰かのために働くことを考えていた。自分の能力も限界が分かり、身体の調子が悪くなりと言うことが続いて無理をして働くことはしなくなった。同時に、今も同様かもしれないが無気力になり自分のやりたいことを優先することもしなくなった。そこから誰かのためにということが社会のためにと変わっていき、何か役に立てればと模索するようになっていくことになる。余計な欲望を持たなければ精神的には楽になるので流されるままに生きてきてしまった。勿論それなりに置かれた環境で精一杯頑張ってきたつもりだが、あんまり評価はされていないと思っている。

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2017年

7月

15日

社会的事業と新公共スタイル

 古本屋を始めてもう4年目となっている。お客さんからはいつから此処でやっているのかよく聞かれることがある。要するにこんなところに古本屋があるなんて知らなかったということなのだ。特に開店の宣伝をした訳でもなく大きな目立つ看板が有るわけでもないので仕方ないことだと思う。こちらとしてもいつが開店日ということもなくだらだらと始めているのではっきりとは言えない。

 開店当時はまだ会社に勤めていた。勤務形態が特殊だったこともあり、かなり自由に出来ていた。年齢的には60歳を過ぎてそろそろ勤めは辞めたいと思っていた。そこで勤務はしながら店を始めてしまった訳である。そこから勤めは週に2回の出勤と言う形態にして開店準備をしてきた。準備と言っても本棚を組み立て本を整理して並べるという作業で今とさして変わらないが、何しろ大量の本なので少しずつやってきた。生活も考えて午前中はパートの仕事を入れて実に不規則で疲れる日々をおくっていた。以前からそんなハードな働き方が多かったのでさほど大変とは思わなかったが、外から見ると過酷な生活に見えたようだ。何しろ休みが無いのだから。

 午前中は月曜日から金曜日までパート勤務、月曜日と火曜日は都心まで出勤、午後は火曜日から日曜日まで古本屋という形になる。加えて臨時的な仕事もこなさなければならないケースもあった。と言うことで朝6時頃から夜の7時頃までをベースに働いていたのだ。流石に午後は店番をしながら居眠りをしていたが、お客さんが来れば飛び起きてということになる。店は午後からなのでいつも開いていないという印象があるのかもしれない。今は仕事はやめて古本屋のみだが、営業時間はそのまま週休2日で午後のみ営業となっている。したがってあまり知られていないし、何をやっている店なのかわからない店に見えるのだろう。それでも口コミなのか最近は本の買い取りを希望するお客さんがポツポツと来るようになった。

 若い頃は公務員生活をおくっていたが、そこを退職してからは普通の会社勤務はしていないので普通の定年退職という時期は無かった。だが年齢的にそうなったらそこからは何らかの社会貢献的な仕事をじっくりと出来たらいいなと思っていた。前の会社がそういうことをフリ―な立場でやらせてくれていたので何度か公共施設のプレゼンに参加し自分なりに情報を集めていた。実際にはなかなか難しく何をすればいいのか具体的なことは見えてこない。とりあえず今の古本屋も商店街の活性化の一環として市の街づくり補助金を活用して始めた。今では事業としての採算が難しく一つの文化運動だと思ってやっているが、いつまでこうしていられるのか。

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2017年

7月

07日

やっと読み終えた

 やっと読み終えた。あまり本を読むのが早い方ではないが、こんなに時間がかかってしまったのは珍しいことだ。合間に別の本も読んでいるので仕方ないことかも知れない。後書にも書かれているように分かりやすく書かれているので読みやすい。これが初めての本だという。調べると村上春樹作品について書かれた本と白川靜氏の漢字の本が出ていた。記者の文芸コラムを何でこんなに面白く読めたのだろう。優しい文章だがじっくりと読まないと意味を飛ばしてしまうので丁寧に読んでいたからだろうか。紹介されている作品や作家も興味のある人が多く、取り上げ方もしっかりとして、読んでいて無駄な部分がなく勉強になった。二年間で色々な作家を取り上げているので、その時代と文学界の様子が分かる。この人の文学作品を読んでみたいと思った。「文学者追跡」小山鉄郎(文芸春秋)

 古本と山を持つ権利を交換するという「たもかく」を作った人の半生記である。ここに書かれているのは若い頃の生活が描かれている。「ポンプ小屋の月光仮面」吉津耕一(長崎出版)

 やはり古本屋をずっとやりながら本を何冊も出している有名な人である。その経験を生かして集めた様々な人の日記を紹介している。日記や書簡類が後年になって高く評価されることがある。その人物像がわかり人となりも含めて作品の価値が上がるということなのだろうか。「自己中心の文学」青木正美(博文館新社)

 最近はこんな風な感じの本を読んでいる。どれも知り合いに紹介されたり、興味をもっているものである。無理に読まなくても眠れない訳でもなく生活に支障が出るという訳でもないが、本を読むことを意識している。ものすごい読書家でも個人で読める本の数より作られる本の数の方が圧倒的に多いのだからゆっくりと読んでいけば良いだろう。

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2017年

7月

01日

本は何処から何処へ

 あまり目立たない古本屋なので通りを歩いて行く人もこんな所に古本屋が有ると言う感じでちらっと見ていくことが多い。その前はここは何の店なんだろうと言う感じだったので何年かやっているうちに少しは認識されてきているのかもしれない。でもまだお客さんが入ってきて本を眺めて出ていくケースが多く、古本屋としては成立していないと思っている。何人かの常連さんはいて定期的に入荷した本を観測していく人もいるので全く機能していない訳でもなさそうだが、商売としては成り立っていない。

 最初から知り合いの人からは本を送ってもらっていたが、一応電話帳には古本屋として登録してあるのでたまに本を買い取ってもらえるのかと言う問い合わせが来ることもある。店には駐車場がないので手に持てる位の本を持参してくる人もいる。店の前に車を止めて本を運び込む人もいる。そんな時は慌ただしく査定をして値段を提示するが、一体いくらで買い取ったら良いのかと困るようなこともある。お客さんとしていくらでも良いと言っても少しでも高く買ってもらいたいのだろうし、こちらとしても必要ない本を仕入れるわけにもいかないので難しい局面となる。

 最近は口コミで本の整理を相談されることが出てきた。ここ何回かそんな話が出て買い取りに行ったこともある。家人が亡くなったり、高齢で施設に入ったということもある。年齢的にはほぼ同じ位の人になるので蔵書も何となく似てくるようだ。同じような本がいっぱい入ってくることになってしまうので必要性はなく処分を考えなくてはならなくなる。人口の比較から言うと戦後の人口が増えた時代の人たちが購入した本がこれから出てくることになるのだろうか。貴重な本を多く収集している人はそう多くはいないと思われるので同じような本が出てくることになるのだろうか。今自宅に処分できないでいる蔵書を抱えてどうしようかと考えている人はできるだけ早い段階で方法を考えておいた方が良いかも知らない。

 戦後の時代は娯楽として本は有ったが、今はあまり本は売れていないようだ。したがって本自体も発行部数が少なくなり値段も高くなってきている。そうなるとますます本は売れなくなるだろうし、これから市場に本は少なくなるのかも知れない。本の代替的な娯楽もいっぱいあるから本を読むことを必要としない時代が来るのかもしれない。その時には古本屋もなくなるだろう。

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