2017年

2月

25日

読書の方法、選書のきっかけ

読んでみたいと思いながら積み上げられている本が増えている。なぜ本を読むのかということから、何をどう読むのかということへ向かう。残された時間があまり無いのだから欲張ってみても仕方がない。読まなくても構わないのだから。したがってお客さんから教えられた本や探しているという本などを読んでみたりしている。一冊読み終えるとそこから派生して別の本を読むと言うことの繰り返しで、読んでみたいと思っている本が自分の出番を待つように積まれている。店があると色々な人がやって来るが、接客のお喋りの中でも色々なことがわかってくる。基本的に本の好きな人が来るので、不思議なもので本の好きな人はどこかで繋がりを持っているような気がする。この本はお客さんから借りた本なのでいつ来店しても返せるように一気に読み終えた。著者は近くの大学の教授ということであり、本も昨年末に発行されたばかりである。お客さんは教授と知り合いであった。頂いた本だが興味があるなら読んでみないかということなので借りた次第である。その大学からは別の教授が店によく来店するのでこれも何かの縁かもしれないと思う。何を読むかということについて情報を集めることも無く日常生活の中から次々と現れてくる。

 行ったことのない国の知識のない話だが、表紙の写真に気をひかれて内容に入っていった。中にも紹介されているが何とも美しい仮面である。仮面の持つ意味、専門が演劇論ということなので祭りの中の仮面の意味、途中は古代史まで入ってきたので悩んでしまったが、歴史的な背景から理解できるので読みやすい。演劇との関係で言うならば仮面をつけることにより変身をはかることになる。その意味としては自己逃避と自己表現が考えられるが、多分両面が使い分けられているのではないかと思う。亡くなった漫画家の永島慎二の作品に「仮面」という短編物がある。日常生活に疲れた人が海辺で付けていた仮面を海に投げ捨てる。その笑顔の仮面の下には悲しそうな素顔があるのだが、ラストシーンは「やっぱり駄目だよ」とつぶやいて捨てた仮面を再び付けて帰っていくというものだった。仮面をつけた祭りの後にやってくる日常生活、素顔のよそよそしさは仮面を付けることによって拭えるのだろうか。「ヴェネツィアの仮面カーニヴァル」勝又洋子(社会評論社)

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2017年

2月

23日

万能な手

 また古本を買ってきてしまった。久しぶりに神保町に出かけてつい何軒かの店を覗いていたら帰りには大きな袋を抱え込んでいた。古本を買う時には多くなってしまっても荷物を送らないようにしている。手元に何も無くなってしまうとまた買ってしまうからだ。したがって帰りには重い荷物を抱えて帰ってくることになってしまう。とりあえず手に持てる範囲で済ませるようになるのでこれでいい。冊数もちょうどいい位になるのでこのペースを守っている。

 古本の値段は大体本の裏側のページに鉛筆で書かれているが、中にはシールを貼っている店もある。あるいは店の名前の入った紙が貼られたいたり、売上伝票も兼ねて切り取るようになっているものもある。帰ってくるとこのシールを剥がすのだが、シール剥がし用のスプレーなどを使うとどうしても紙が傷んでしまう。別にそのままにしていてもかまわないのだろうが、やはりきれいな状態にしないと何となく気になるので何とかうまく取り除くようにしている。そんな時には器具を使うと本を傷めてしまうので、丁寧に時間をかけて手で剥がす。爪を使い角を少しずつ剥がして指の腹でシールを巻き上げゆっくりと剥がしていく。色々教えてもらって試してみたが、これが一番きれいに取れるような気がする。

 本の汚れをふき取り、除菌もして、埃や日焼けやシミなどを少しずつ取り除いていく。表紙や帯が破れないようにカバーをかけてやっと読める状態に持っていくのだが、やはりこの手間暇かけた手作業が何となく本を大切にしているような気がして良い時間になっている。そこから本を読む時間になるのだが、本をパラパラと捲りながら眺めているとなかなか読むことなくすでに完成してしまったような気分になってしまうので困ってしまうのだ。

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2017年

2月

17日

ああ言えばこう病む

 町役場から健康診断の結果が良くないので指定された病院へ相談に行きなさいと連絡がきた。毎年健康診断を受診しているが初めての通知だった。おそらく町の高齢化率が高くなり、そういう指導がされているものと思われる。その前には介護が必要かどうかの状況調査も届いている。これらを無視していると催促の電話をするというので丁寧に調査には答えて、病院にも行ってきた。特に介護が必要な訳でもないし、家族を介護している訳でもないが、将来的にはどうなるのかはわからない。我が家ではこの手の調査には協力的だが、その答えでは拒否的な雰囲気を醸し出しているので町からの反応はあまり良くないと感じている。指定された病院は以前に働いていた所なので様子もわかっているが、初めてなので一時間は取ってもらいたいと言うのでじっくり話を聞いてきた。すでに検診の結果は相手側に把握されていて、内容もほとんど問題ない数字だった。基本的にはメタボ対策の健康指導なのだ。実は昨年の検診後に胃の不調があり、体重がかなり落ちていたものだから数字は改善されている。むしろ落ちた体重が元に戻らないので心配している位だ。結局メタボはないので体力維持のトレーニングをするようにという指導だった。おまけに毎日のチェックをしなくてはならない。ストレスで病気になってしまうかもしれない。そして半年後には再度検査をするというのだ。町の医療費負担が年々増加していくのもわかるような気がする。病気にならないために予防をしなくてはいけない。そのためにお金をかけて調査をし、相談のために病院に委託し、健康維持のための運動教室などを開催すると余計な費用がかかっているような気がするのだが。何もしないでいれば自然に死んでいくだろうに、そんなにまでして病気を見つけるとまた医療費負担が増えていくのではないだろうか。

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2017年

2月

12日

今さらながら

 毎日のように暇な古本屋をやりながら本を読んでいる。今は先日の買い取りで積み上げられている本を少しずつ整理している状態だが、何とか縛りなおしてこれをどうしようかと思案中。そんな訳で最近は本が読めていない。読もうと思っている本は出番を待っているのだが、だんだんとその数が増えているような気がする。古本屋というのは本当に本が増えていくものだと実感している。先日来店した人に最近は小説の紹介が少なくなって評論などが多くなっていると指摘された。そういえば読んでいるものもその手の本が多くなっているかもしれないと思う。以前は当然のように創作物を中心に読んでいたのだ。なぜ本を読むのかというと、ほぼ小説を読んでそこから色々なことを学んでいた筈だった。全く読んでいない訳ではないが、評論やノンフクション、エッセイや雑誌などが読みやすいので多くなっている。なぜ本を読むのかともう一度自問してみる。知識や情報としては得るものはあっても本当に読んで感動できる本はあるのか。そんなに多くの数を読める訳ではないので文学をこなしていかなくてはと思う。しかし、芥川賞が発表になったのでつい文藝春秋を買ってしまった。

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2017年

2月

02日

言葉と力

 昨年の流行語大賞は何だったか覚えていないが、私が一番記憶しているのは「保育園落ちた、日本死ね」というものだった。そしてこの一連の報道をテレビで見ていた。文章はもう少し長いもので確か「一億総活躍社会って私活躍出来ないじゃないか」というのも書かれていたと思う。当時の国会でこの言葉を取り上げた野党の議員に対して、首相は「どこの誰ともわからない匿名のメールに対して言うことはない」と答弁した。与党のヤジもそういうものだった。次の日、国会前には「保育園落ちたのは私だ」というプラカードを掲げた女性たちが数は多くは無かったが集まっていた。さらに次の日、テレビでは与党の議員が「すみませんでした」と謝っていたのだ。そしてこの国会では保育園の待機児童の問題が争点になっていった。

 メールの匿名性については色々な意見がある。アメリカ大統領のツイッタ―に対して約束していた訪問を中止すると発表する国も何だか大人げないとも思える。ネット上でのやり取りで国際的な外交が行われているような現状は昔から比べるとすごい進歩した社会なのだろうかと疑問を感じる。

 件の当初のメールは発信者の怒りがこもっていたかのような少し汚い文章だった。しかし、「日本死ね」という端的な言葉には国の政策に対してのはっきりとした批判が出ていてわかりやすく伝わりやすいものだった。そして匿名批判に対して、次の言葉が「保育園落ちたのは私」だというものであり、それを行動で示したことが大きな意味を持つものだと思う。何万人ものデモではなく数人の女性のプラカードが国会を動かしていくことに感動した。

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