2018年

8月

25日

趣味的な古本屋

 知り合いの人から店を始めてもう何年になりますかと言われたが詳しいことはよくわからない。店を借りた時期はわかるのだがそこから一人でのんびりと準備をしてきたからだ。本を棚に並べ始めたらお客さんはやってくるので棚を作りながら本を入れて少しずつ本屋らしくなってきた状態である。実はその時点でも未だ以前の仕事は辞めていなかった。近くの事業所では後継者育成を進めていたのできちんと辞める形になったが、本部の仕事は後継者がいなくて週に2日出勤していた。それ以外の日は午前中アルバイトをして午後から店にいるような感じだった。今から考えるとかなりきつい労働をしていたような気がする。とにかくもっと楽な日程にしようと思い年齢的な節目で店だけに集中することにした。その位の段階ではもう本もかなり増えており、何となく本屋らしくなっていた。しかしそれはやはり趣味的な古本屋という程度で、そこから商売として成立するようになっていないのが実情である。歳をとってからの開店なのでこれ以上の展望はなかなか拓けないだろうと思っている。

 当初の計画では身体が動く限りは年齢も関係なく出来るだろうと思って定休日や営業時間などを決めていた。本の買い取りも出来るように管轄の古書組合にも加入するつもりで合わせたのだが、そうそう本が売れる訳ではなく現実には難しいものがあった。したがって店としての内容はますます趣味的になっていくしかなかった。勿論頑張っている他の店もあるし色々工夫して経営をしている店もあるので可能性はあるようだが、自分にどこまで出来るのかはわからない。店を始めてから関連する本を読んでいると面白い店がいっぱいあることもわかったのでそれらの店を見学に行ったり、長く商売をしている店なども見に行って勉強させてもらっている。あれこれ考えながら年齢を重ねてしまっているといった感じである。昔の古本屋というのはどういう商売をしていたのか、現実にどのような運営をしているのか想像するしかない。一度骨董組合の競り市に見学に行ったが、かなり高額の売り買いが行われていたので趣味でやれるような所ではなさそうだと言う印象だった。

 この著者も含めて長く古書店を営んでいる人の本を何冊も読んだことがある。昔は神田の店を端から見て回って本を買っていたこともあるし古書市にも行ったことがある。今はネットでの販売が中心になってしまったのでそんなに高額の買い物は聞いたことがないが、昔の古書店ではすごいことが行われていたのだと思う。古書の世界ではまだ昔のイメージを持っている人が多いのだろうか。その時代を生きてきた人の現代に至るまでの変遷がきちんと書いてある。デパートなどで行われる古書市では作家原稿や書簡、日記の類が展示されることがある。個人的には、献呈本なども含めて個人の名前が入っているものについての公開はどうも気になる所がある。亡くなっているのでその想いはわからないが、やはり個人的な情報などはどこかで守られなくてはいけないのではないかという気がする。ここではタイトルにあるように作家の肉筆原稿を収集することが古本屋の商売にもなり、貴重な文献や資料の保存にも役立つということがわかる。そしてタイトルが示す通りにその経過が内幕を含めて書かれているのだ。やはり古い時代の話になってしまうような気がするが、あとがきの内容が身に沁みる。「文芸春秋作家原稿流出始末記」青木正美(本の雑誌社)

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2018年

8月

17日

かわいそうなぞう再び

 毎年この季節になるとテレビや新聞で戦争に関するニュースや映像が取り上げられる。この時期だけ報道されるのもどうかと言う人もいるが、それでも報道されるだけでも意味があるのではないだろうかと思う。それにしても毎年新しい映像や資料や音声データなどが出てくるのはどういうことなのだろうか。情報公開の制度上で少しずつ公開されているのだろうか。多くは戦争時の秘密事項だったというものが出てくると、やはりあったのかという残念な気持ちになる。比較して日本の官僚は都合悪いものは皆処分してしまうようだ。敗戦時も資料は全部処分してしまったようだ。これでは新たな資料が出てくる筈がない。最近の国会での質疑を聞いていてもその体質は変わらず都合悪い資料は出てこない。いらいらもやもやしてもそれで済んでしまうのだからやりきれない思いだ。

 先日のラジオ放送で「秋山ちえ子の談話室」で放送された「かわいそうなぞう」の朗読を聞いた。毎年この時期に朗読していたものらしいが、すでに亡くなっているので再放送されたものだった。初めて聞いたので全部は覚えていないが、どうも原作をそのまま読んでいるものではなかったような気がした。この絵本の内容については一部で戦争の真実を伝えていないと言う批判があった。その内容については何冊かの関連図書を読んで納得する部分もあった。今回秋山氏の朗読も聞くことができて、また何が問題にされたのかがわからなくなってしまった。戦時中のどさくさの中で行われた様々な出来事については多くを語らない人達がいる。新たな資料が出てくることでまた違った見方が出来るようになることもある。絵本の朗読を聞いた印象としては戦争の悲惨さは十分に伝わってきた。そのために犠牲になったぞうや動物たちの悲劇も理解できるものだった。この時期だけ放送される戦争時の映像も見る人の戦争は嫌だという気持ちを十分に喚起するのではないだろうか。と思う。

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2018年

8月

05日

絵本の思い出

 小さい頃に絵本を読んだ記憶がない。当然子供の頃には読んだ筈なのだがタイトルも絵柄も覚えていない。店にも絵本がほとんどない。何が良い絵本なのかがよくわからないので仕入れが難しいのだ。自分の小さい頃に読んだであろう絵本や今はこんな本が読まれているのではないだろうかと言うのが選ぶ根拠になるのだろうか。何を棚に並べればいいのかわからない。全然置いてない訳ではないがかなり消極的な選択方法になっている。お客さんからの買い取り依頼で店に集まったものをそのまま処分しないで置いているのである。今お客さんに読まれているのだから面白いのだろうという程度なのだ。絵本に限らず児童書の類もなかなか難しい。これも極めて偏った本しか読んだ記憶がない。ほんの数冊程度の本しか思い浮かばない。したがって絵本と同様に集まった本を置いているだけだ。

 大人になって読み始めた絵本がある。勤めている時に休みなどを利用して「絵本の学校」という所に通ったことがある。夜間に東京まで通って一流の絵本作家の講義を受けた。けっこう高額の受講料を払った覚えがあり、毎週のように通っていた。「月刊絵本」という雑誌があって、これを読んでいたのだ。ただ何故絵本の雑誌を購読していたのかは覚えていない。自分で絵本を書きたかったのかも知れないと思う。その「絵本の学校」の講師兼事務局員のような存在で長谷川集平という若者がいた。「月刊絵本」を出していたすばる書房に勤めながら絵本作家としてもすでにデビューしていたのだろうか。その出版社の企画である「絵本の学校」の事務局的なことをしながら講師もしていたのだ。多分最初の講義だったように思うが、彼はいきなり自分の絵本を破り始めたのだ。絵本なんて破けばただの紙だということだったが、これがなかなか破けない。彼はかなりやせ形の若者でそんなに握力があるとは思えなかった。結局、絵本の装丁はしっかりしていることがわかったという結論を出したのだ。長谷川集平氏の作品「はせがわくんきらいや」は自身の体験を描いた森永ヒ素事件をテーマとした絵本である。それゆえ体力もなくひ弱な少年が主人公である。それが何となくイメージされてしまった講義だったが、その試みはよく理解できた。だが実際に本が破けなかったので後に出た人からうちの出版社の本はしっかりしていると言われてしまった。この本は「月刊絵本」の別冊として出されているが、まるで個人集のような本である。その後に色々な所で名前を見るようになったが、この二冊の本で人となりを理解できるのではないかと思う。店には長谷川集平氏の本が何冊か集められて並べてある。「絵本宣言序走」長谷川集平(すばる書房)

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